西嶼灯台(漁翁島灯台)

観光スポット
漁翁島灯台は国定古跡です。西嶼郷外垵村西側の屹仔尾岬にあり、この場所の西側の海域は、澎湖六大急流(一磽、二吼、三西流、四鵝豆頭、五潭門、六東吉)のうちの「西流」になります。古来より、台湾と廈門を往来する航路の指標となってきました。
乾隆43年(1778年)、台湾府知府の蔣元枢と澎湖庁糧捕海防通判の謝維祺は、廈門から東に向かう船が、西嶼を航海の指標とするため、この場所に西嶼灯台を特別に建設しました。これは、台湾、澎湖地区で、最初に建設された灯台です。現存する「西嶼灯台建設碑」には、「澎湖は台湾、廈門の間に位置し、特に西嶼は要路である。風が強い時、官船や商船は西嶼を休息の地とした。」と記されています。これにより、この場所に西嶼灯台を建設した重要性を知ることができます。西嶼灯台が初めて建てられた時の構造は、碑文によると次のように記載されています。「かつての基地を活用したものであり、土台の幅は五丈、七層の石塔で一層が七尺とした。堅固であり、永続することが期待される。その頂には灯りを設け…」、同時に灯台のそばに灯台廟を建立し、天后媽祖を中に祀りました。毎日日暮れを迎えると、塔廟の僧が塔頂に火を灯しました。西嶼灯台は長年にわたり幾度も風災に見舞われているため、道光3年(1823年)、澎湖庁通判の蔣鏞は澎湖水師提督である陳元戎と資金を調達し、西嶼灯台を修築しました。しかし、塔頂にあるランプから生じる光は弱く、各国の灯台が発する光の基準を満たすことができないため、イギリス、アメリカ、日本、フランス等の国は、清朝政府に新しい灯台の建設を要求しました。同治12年(1873年)、福建海関総税務司は、新しい灯台を建設するための用地を購入し、灯台と付属施設を再建するため、西嶼に人を派遣しました。同治13年(1874年)、海関総税務司はイギリス人技師(ヘンダーソン DAVID M.HENDERSON )を招聘しました。西洋式灯台の構造を模した灯台の設計を計画し、西嶼灯台は円形の鋳鉄製灯台として再建されました。外観は白く塗られ、入口上方の三角形部分には英語の銘文(DAVID M.HENDERSON 1874)が凸型で刻まれています。光緒元年(1875年)7月11日に着工し、同年11月に竣工しました。11月18日に常駐点灯が開始され、灯台守として外国籍の責任者を招聘しました。現在でも灯台を囲む塀の西側にある岬には、当時の灯台守であるイギリス人責任者の娘の墓が残されています。また、「Nelly O’Driscoll」と刻まれた十字型の墓碑もそびえ立っています。灯台の竣工と点灯の後、「漁翁島灯台」と正式に命名されました。
新しく建築された漁翁島灯台は、塔高11メートル、灯高67.7メートルになります。灯台の南西側には、霧が発生した時に空砲を発射し、航行する船に警告を与えるための霧砲が3基設置されています。日本統治時代は、清朝時代の台湾設備が使用されたほか、百葉箱型の気象観測機器が設置されました。同時期の明治30年(1897年)、澎湖島に駐留していた日本軍は有線電話設備を利用し、媽宮と漁翁島灯台の間に海底電話回線を敷設しました。これが、台湾澎湖地区における有線電話の始まりとなりました。第二次世界大戦の末期となる昭和20年(1945年)7月5日から8月7日にかけ、米軍の爆撃を受けましたが、幸いにも被害は軽微であったため、灯台は通常通り灯すことができました。民国55年(1966年)、漁翁島灯台は、光度18万カンデラ、光達距離25.1海里、第四等レンズ回転式灯器を備える灯台に改装されました。民国70年(1981年)、視界不良時に往来する船舶の航行の安全性を向上させるため、「霧笛」がさらに2基設置されました。
【おすすめの滞在時間】 2時間

データ出典: 国家文化資産ネットワーク

訪問情報:見学無料

サービスについて
● 喫煙禁止
● 展示品に触れないでください
● 公共物を損傷または汚さないでください
● 子供の安全に注意してください
● 清潔に保ち、騒がないでください

  • 開放時間
  • 09:00~18:00(月曜定休)
近くの交通・アクセス TRAFFIC INFORMATION
交通・輸送
INFORMATION
馬公発,県道203号線を西嶼郷方面に進み、次に郷道澎8号線を進み、次に郷道澎6号線を進みます。約59分で到着。
近くのスポット TOURIST ATTRACTION