媽宮城隍廟
観光スポット
現在澎湖には文澳と媽宮の二つの城隍廟があります。これは台湾にとってかなり特殊なことです。媽宮城隍廟は閤澎公廟(官民が共に祀る廟)です。毎年旧暦7月の普渡の儀礼は城隍廟から始まり、その他の各地の廟が引き継ぎながら進めていきます。そのため、「城隍廟で始まり、観音亭で終わる」という俗諺があります。
乾隆44年(1779年)、澎湖庁糧捕海防通判の謝維祺は、庁署そばにある文澳城隍廟は狭く、神様が敬われていないとして、監生の郭志達を率い、今の媽宮がある場所に城隍廟を新たに建造しました。また、石碑は現在も残されています。
光緒11年(1885年)、清仏戦争の影響は澎湖にも及びました。2月、フランス軍が澎湖に侵攻した際、城隍廟の神様が現れ、澎湖の人々と兵士を守ったとの話が伝わりました。その後、城隍廟と天后宮は皇帝から扁額を賜り、城隍には「霊応侯」が封じられたことから、府城の城隍と同格になりました。
光緒15年(1889年)、清朝政府が澎湖庁署を完成したばかりの媽宮城内に移したことで、媽宮城隍廟は正式に官衙が所在する城隍廟となりました。城隍廟は媽宮総鎮署東側の店舗のある場所に位置し、絶えず人々が訪れました。官民が共に祀る廟だけでなく、人々を教育するという役割も担っていました。
日本統治時代の昭和8年(1933年)に行われた最大規模の改築により、屋根を高くしたことで廟はより一層立派になり、内外の彫刻や色絵も見事なものとなりました。
1982年、1999年、2022年にも修復を行い、工事の完了により今日のような姿になりました。
廟では城隍爺を主祭神として祀っており、文武判官、四神将(四大吏)、虎爺,臨水夫人、註生娘娘が配祀されています。内埕の東西廂房には、「註禄司、陰陽司、褒善司、註寿司、速報司、罰悪司」の六司官、七爺、八爺、文武班頭爺などの神が祀られています。
光緒の時代、フランス軍が澎湖に侵攻してきました。住民は北にある頂山(白沙島)へ避難のために向かっていましたが、途中でフランス軍の砲撃を受けたため、人々は城隍爺の加護を得るために祈るしかありませんでした。その後すぐに大雨が降り、その影響でフランス軍の砲弾が爆発不能となったため、難を逃れることができました。清仏戦争の講和後、清朝政府は城隍廟の奇跡に感銘を受けて「霊応侯」の称号を授けました。そのため、「敕封霊応侯」の扁額が中庭にある廟の中央に掛けられています。後殿中央には光緒帝が下賜した「功存捍衛」の扁額があります。城隍廟内の柱には聯が数多く見られます。正殿神龕の木聯として「當日肆無忌,滅理壊倫,君自幹去;今朝悔已遅,披枷帯鎖,爾自惹来」、また三川殿入口の楹聯として「將入廟来,當防失足;要帰家去,須早回頭」などがあります。入口には「你来了」、「悔者遅」の二つの扁額と、上に2玉、下に5玉ある11桁の「大そろばん」が掛かっています。いずれも深い意味が込められており、世間の人に警告を与えています。
正殿の左壁には乾隆44年(1779年)の「澎湖改建城隍廟碑記」、光緒12年(1886年)の「重修城隍廟碑記」などの石碑があります。すでに長い時が経ち、線香の煙による影響で文字ははっきりしませんが、廟が新たに整えたことで、なぞってみると字をはっきりと知ることができ、城隍廟の長い歴史をより一層際立たせています。
農暦6月6日の夜から7日の早朝にかけて行われる媽宮城隍廟の「補運」は、非常に特別なものです。信者たちは甘い蒸しもち米を大きなお椀に入れ、その上に赤く染めた殻付きゆで卵を家族の人数分置き、これを「補命銭」で囲い、城隍爺の庇護を祈ります。参拝後は卵の殻をむきます。これには、悪い運を払い良い運に変えるという意味が込められています。そして、線香の灰を卵にふりかけます。帰り道は人と話してはならず、家に着いたら年齢を問わず家族全員で殻をむいた卵を食べることで、一年を無事に過ごし、不運が好運になると言われています。
媽宮城隍廟は七美に分霊されています。大正8年(1919年)、媽宮の方府城隍は八罩島(現在の望安郷)に赴き視察しました。大嶼(現在の七美郷)の信者はわざわざ八罩まで向かい、方府城隍が大嶼も訪れるようお願いしました。途中、大嶼の雰囲気と治安が良くないことを知ったため、報告を受けた玉帝は、長期滞在し状況を改善するよう龔府城隍に指示しました。郷に初めて到着した龔府城隍は扶鸞による降示により、大正10年(1921年)にタンキーを行ないました。大正12年(1923年)、改善に着手し、甕を屋根としないように指示したほか、塔高11層の石塔を2層減らし、繰り返し巡視したことで、恐れるような環境の中での生活から信者たちは解放されました。90年の時を経て、民国97年(2008年)の農暦4月27日に七美城隍廟(森法殿)は七美郷の各廟とともに馬公城隍廟の祖廟に戻ったことで、信者の長年の願いが叶いました。
データ出典:『2021年 澎湖県文化資産ハンドブック』、澎湖県政府のニュースリリース
乾隆44年(1779年)、澎湖庁糧捕海防通判の謝維祺は、庁署そばにある文澳城隍廟は狭く、神様が敬われていないとして、監生の郭志達を率い、今の媽宮がある場所に城隍廟を新たに建造しました。また、石碑は現在も残されています。
光緒11年(1885年)、清仏戦争の影響は澎湖にも及びました。2月、フランス軍が澎湖に侵攻した際、城隍廟の神様が現れ、澎湖の人々と兵士を守ったとの話が伝わりました。その後、城隍廟と天后宮は皇帝から扁額を賜り、城隍には「霊応侯」が封じられたことから、府城の城隍と同格になりました。
光緒15年(1889年)、清朝政府が澎湖庁署を完成したばかりの媽宮城内に移したことで、媽宮城隍廟は正式に官衙が所在する城隍廟となりました。城隍廟は媽宮総鎮署東側の店舗のある場所に位置し、絶えず人々が訪れました。官民が共に祀る廟だけでなく、人々を教育するという役割も担っていました。
日本統治時代の昭和8年(1933年)に行われた最大規模の改築により、屋根を高くしたことで廟はより一層立派になり、内外の彫刻や色絵も見事なものとなりました。
1982年、1999年、2022年にも修復を行い、工事の完了により今日のような姿になりました。
廟では城隍爺を主祭神として祀っており、文武判官、四神将(四大吏)、虎爺,臨水夫人、註生娘娘が配祀されています。内埕の東西廂房には、「註禄司、陰陽司、褒善司、註寿司、速報司、罰悪司」の六司官、七爺、八爺、文武班頭爺などの神が祀られています。
光緒の時代、フランス軍が澎湖に侵攻してきました。住民は北にある頂山(白沙島)へ避難のために向かっていましたが、途中でフランス軍の砲撃を受けたため、人々は城隍爺の加護を得るために祈るしかありませんでした。その後すぐに大雨が降り、その影響でフランス軍の砲弾が爆発不能となったため、難を逃れることができました。清仏戦争の講和後、清朝政府は城隍廟の奇跡に感銘を受けて「霊応侯」の称号を授けました。そのため、「敕封霊応侯」の扁額が中庭にある廟の中央に掛けられています。後殿中央には光緒帝が下賜した「功存捍衛」の扁額があります。城隍廟内の柱には聯が数多く見られます。正殿神龕の木聯として「當日肆無忌,滅理壊倫,君自幹去;今朝悔已遅,披枷帯鎖,爾自惹来」、また三川殿入口の楹聯として「將入廟来,當防失足;要帰家去,須早回頭」などがあります。入口には「你来了」、「悔者遅」の二つの扁額と、上に2玉、下に5玉ある11桁の「大そろばん」が掛かっています。いずれも深い意味が込められており、世間の人に警告を与えています。
正殿の左壁には乾隆44年(1779年)の「澎湖改建城隍廟碑記」、光緒12年(1886年)の「重修城隍廟碑記」などの石碑があります。すでに長い時が経ち、線香の煙による影響で文字ははっきりしませんが、廟が新たに整えたことで、なぞってみると字をはっきりと知ることができ、城隍廟の長い歴史をより一層際立たせています。
農暦6月6日の夜から7日の早朝にかけて行われる媽宮城隍廟の「補運」は、非常に特別なものです。信者たちは甘い蒸しもち米を大きなお椀に入れ、その上に赤く染めた殻付きゆで卵を家族の人数分置き、これを「補命銭」で囲い、城隍爺の庇護を祈ります。参拝後は卵の殻をむきます。これには、悪い運を払い良い運に変えるという意味が込められています。そして、線香の灰を卵にふりかけます。帰り道は人と話してはならず、家に着いたら年齢を問わず家族全員で殻をむいた卵を食べることで、一年を無事に過ごし、不運が好運になると言われています。
媽宮城隍廟は七美に分霊されています。大正8年(1919年)、媽宮の方府城隍は八罩島(現在の望安郷)に赴き視察しました。大嶼(現在の七美郷)の信者はわざわざ八罩まで向かい、方府城隍が大嶼も訪れるようお願いしました。途中、大嶼の雰囲気と治安が良くないことを知ったため、報告を受けた玉帝は、長期滞在し状況を改善するよう龔府城隍に指示しました。郷に初めて到着した龔府城隍は扶鸞による降示により、大正10年(1921年)にタンキーを行ないました。大正12年(1923年)、改善に着手し、甕を屋根としないように指示したほか、塔高11層の石塔を2層減らし、繰り返し巡視したことで、恐れるような環境の中での生活から信者たちは解放されました。90年の時を経て、民国97年(2008年)の農暦4月27日に七美城隍廟(森法殿)は七美郷の各廟とともに馬公城隍廟の祖廟に戻ったことで、信者の長年の願いが叶いました。
データ出典:『2021年 澎湖県文化資産ハンドブック』、澎湖県政府のニュースリリース